町のはずれに、24時間営業の、少しだけ古びたコンビニがあった。
チェーン店なのに、看板の色はあせていて、電気も他より少し暗い。
けれど夜になると、そこだけぽつんと光って、まるで小さな宇宙船みたいに見えた。

そのコンビニで、夜勤のアルバイトをしている青年がいた。
名前は、空(そら)。
「空」の一文字で「そら」。
初対面の相手に自己紹介をするたび、「あ、大空の、空です」といちいち説明するのが、彼は昔から面倒に感じていた。
勝手な爽やかさや広大さを期待してくるような気がして、少し窮屈に感じていた。
空は、人にやさしいと言われることが多かった。
かわりに、こんなこともよく言われた。
「もっと自分を大事にしなよ」
「断っていい時は、断っていいんだよ」
けれど、そう言われるたびに、空は心の中でつぶやいていた。
……自分を大事に、なんて言われてもなあ。
自分のこと、そんなに好きじゃないし。
だから、他人にやさしくしていれば、せめて「良い人」くらいにはなれる気がして、頼まれごとは、だいたい断らなかった。
この夜も、コンビニの休憩室で、温めすぎた肉まんをほおばりながらスマホを眺めていた。
グループラインには、友だちからのメッセージが積もっている。
空は、客の気配があったので急いでレジに戻った。

レジの前には、おばあさんが一人。
その横、雑誌コーナーのあたりに、見慣れない男の人が立っていた。
スーツでもなければ、作業着でもない。
白いシャツに、よれない黒いパンツ。
何より目を引いたのは、彼の背中だった。
それは星空だった。
もちろん、本当に星空が広がっているわけではない。
けれど、空にはそう見えた。
背中一面に描かれた、細かな銀の点。
小さな星座が、いくつもいくつも重なっているようだった。

男は、漫画雑誌を一冊手に取ると、レジに来た。
「温め、いりますか?」
空がいつもの台詞を言うと、男はくすっと笑った。
「漫画を温めたら、内容まで熱くなるかな」
「……そんなサービスは、うちにはまだ……」
空が苦笑いすると、男は首をかしげた。
「ねえ、空くん」
「えっ、なんで僕の名前を……」
「名札に書いてあるよ」
男が指さした先には、「空」と書かれた名札。
空は、少しだけ赤面した。
「空くん、人にやさしいでしょ」
「え、まあ、その……普通だと思いますけど」
「でも、自分には、そんなにやさしくない」
唐突な言葉に、空は動きを止めた。
「……。」
「……違った?」
男は首をかしげたまま、穏やかな声で続けた。
「コンビニって、面白いよね。
人の『ちょっとした無茶』が、いろんな形で並んでいる」
「ちょっとした無茶?」
「そう。
夜更かしするためのエナジードリンク。ストレスを甘さでごまかすスイーツ。
疲れたから、カップラーメンで済ませようっていう、あきらめの味」
空は思わず笑った。

「たしかに。 なんだか、全部見透かされてるみたいですね」
「空くんはさ、人にやさしくするのは上手。
でも、『無茶を止める』ほうのやさしさは、まだちょっと苦手かな」
男は、レジ横のホットスナックを指さした。
「例えば、この時間に、からあげを二つ食べようとしてる人にさ、『明日も仕事ですよね?』って聞けるかどうか」
「そんな店員、いやですよ」
空が吹き出すと、男も笑った。
笑いが一段落したところで、男はふっと真顔になった。
「でもね、本当に『善いもの』ってさ、自分をすり減らしてまで、ものすごく頑張ることじゃないと思うよ」
「え?」
「魂の奥底にある善は、自分を粗末にすることを、喜ばないよ」
その一言は、店内の蛍光灯よりも、ずっと強く、空の胸の中を照らした。
「魂の奥底にある……善」
空は、その言葉を繰り返した。
「うん。 空くん、自分の中にさ、『これが正しい』『こうあるべきだ』っていう声がない?」
「ああ……あります。 人を困らせちゃいけないとか、頼まれたらできるだけ引き受けるべきとか」
「それ、どこから来た声だと思う?」
空は、少し考え込んだ。
家族の顔、先生の言葉、昔読んだ本。。。
「うーん……育てられ方とか、周りの期待とか……ですかね」
男は、軽く首をふった。
「それもあるけどね。 もっと奥のほう。
誰にも教えられていないのに、
『これはやだな』
『これはうれしい』って感じる、そのいちばん深いところ」
空は、心の中をさぐるように目を閉じた。
誰かが泣いているときに、胸がぎゅっとなる感覚。
理屈より先に、体が動いてしまう瞬間。あきらかに損なのに、なぜか助けてしまう、不思議な衝動。
「ああ……なんとなく、あります。
『そうしたいから、そうしてるだけ』みたいなやつ」
「それだよ」
男は、嬉しそうに指を『ピッ!』と鳴らした。
「それはね、『魂の奥底にある善』が、空くんの中に顔を出している場所なんだ」
「でも、だったらなおさら、僕がんばらなきゃいけない気がします。
その善に応えるために」
「がんばり方の問題だよ」
男は、レジ横のおにぎりを一つ手に取り、軽く振って見せた。
「このおにぎり、ラップに包まないで持ち歩いたら、すぐぐちゃぐちゃになるよね」
「まあ、そうですね」
「だから、ちゃんと包んで守る。
それは、おにぎりの中の『いいもの』を守っていることになる」
「……はい」
「空くんの心も同じ。
中にある『魂の奥底にある善』を守るためには、外側にある空くん自身を、大事に包んでやらなきゃいけない」

「僕自身を……包む」
「そう。
自分をボロボロにしてまで人のために尽くすのは、おにぎりのラップを全部はがして、『中身だけ差し出すから、好きに食べてください』って言ってるようなもの」
男は、くすっと笑った。
「最初は『すごい自己犠牲!』って拍手されるかもしれない。
でも、数日後には、乾いて、ひび割れて、誰も近寄れなくなる」
「……なんだか、身に覚えがありすぎて、笑えないです」
「あ、でも、ちょっと笑ってる」
「苦笑いですよ」
二人のあいだに、小さな笑い声がこぼれた。
「自分を尊重するってね、実は『善』のためのメンテナンスでもあるんだよ」
男は、言葉を選ぶように続けた。
「自分の心と体をちゃんと休ませて、嫌なものには『嫌だ』と言って、できないことには『できない』と言って。
それをしないまま『隣人愛』を続けると、いつか心のどこかがつぶやき始めるんだ」
男は、小声で、少しだけ意地悪そうな調子でつぶやいた。
「『こんなにやってあげてるのに』って」
空は、胸を突かれたような顔をした。
「ああ……それ、あります」
「でしょ」
男は、にやりとした後、少し優しい声に戻った。
「本物の善はね、『自分もだいじ、あの人もだいじ』って、両方を同じ重さで見ている」
「同じ重さ……」
「自分を軽くして、相手だけ重くするんじゃない。
自分だけ重くして、相手を見下ろすんでもない。
天秤に二人分を乗せてみて、『あ、いい感じにバランス取れてる』ってところを探る感覚」
空は、心の中に、小さな天秤を思い浮かべた。

片方に、自分。
片方に、相手。
どちらかに傾くたびに、きしきしと音がして、真ん中を探ろうとしている。
「でも、現実って、そんなにかんたんにバランス取れないですよね」
「もちろん。
だから、『完璧な天秤職人』になろうとする必要はない」
男は、コンビニの窓の外を見やった。
街灯の光が、アスファルトに小さな輪をつくっている。
「大事なのはね、『あ、今、自分のほうがだいぶ沈んでるな』って気づいたとき、いったん、荷物を少し降ろしてみる勇気なんだ」
「……それってつまり、『断る勇気』とか?」
「うん。
そして、『助けを求める勇気』でもある」
空は、少し黙り込んだ。
グループラインのメッセージが頭の中で蘇る。
『空だけが頼り』。
その言葉は、うれしくもあり、重くもあった。
「でも、そんなことしたら、がっかりされるかも」
「がっかりされることもあるね。
でも、『空くんの限界』を知らないまま頼ってる人も、けっこういるよ」
男は、レジ横に置かれた募金箱を指さした。
「これ見て。
ここに『限度額』って書いてないからって、自分の全財産を入れなきゃいけないわけじゃない。
自分の生活をまるごと差し出したら、それはもう、募金じゃなくて、破滅だから」
男は、少し声を落として付け加えた。
「魂の奥底にある善はね、『あなたが破滅すること』なんて、求めてない」
空は、深く息を吸った。
胸の奥の固いところに、少しずつ、ひびが入っていくのを感じた。
「じゃあ、自分を尊重することも、その善の一部なんですね」
「そう。
自分をだいじにすることと、人をだいじにすることは、同じ根っこから生えてる」
男は、指で空中に一本の線を描いた。
「この線の真ん中に、『魂の奥底にある善』がある。
左側に『自分』、右側に『隣人』。
どっちかだけを伸ばそうとすると、線はゆがんでしまう」
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
「毎日、ちょっとずつ聞いてみること」
「誰に?」
「その、真ん中にいるやつに。
心のいちばん奥にいる、『魂の奥底にある善』にね」
空は、その言葉を反芻した。
「どうやって……聞くんですか」
「例えばさ、今日みたいにグループラインに頼まれごとが来たとする。
そのときに、いきなり返信せず、たった十秒でいいから、目を閉じてみる」
男は、目を閉じ、そっと問いかける口調になった。
「『いまの自分の心と体の状態で、これは本当に引き受けていいかな?』って」
空は、心の中でもう一度、その言葉をなぞった。

「……それで、『うん、やりたい』って感じたら?」
「それは、きっと、『善』と空くんが同じ方向を向いてるとき」
「逆に、『ああ、これ以上はきついな』って感じたら?」
「そのときは、『ごめん、今回はむずかしい』って伝えるのが、自分にも相手にも、いちばん誠実な選択」
空は、思わず笑ってしまった。
「頭では分かるんですけどね。
送信ボタンを押すまでのハードルが、高いんですよ」
「分かる分かる。
だから、最初は練習問題からでいい」
男は、コンビニの棚を指さした。
「たとえば、疲れてる夜に、本当はあったかいごはんをちゃんと食べたほうがいいのに、カップラーメンで済ませちゃおうとする自分がいる。
そこで、10秒。
『本当に、これは今の自分にとって、いちばんいい選択かな?』って聞いてみる」
空は、湯気の立つカップラーメンと、手のかかるちゃんとしたごはんをイメージした。
「たぶん、ラーメンを選びたい自分と、体をだいじにしたい自分が、心の中で会議を始める」
「そのときに、『どっちの声のほうが、魂の奥底にある善に近いかな』って、静かに見てみる」
「でも、それって、めんどくさくないですか」
「めんどくさい。
でも、人生ってだいたい、『ちょっとめんどくさいほう』に、大事なものが隠れてるから」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「こういう小さな選択をくり返していくと、自分の中の『善の感度』が、すこしずつ上がっていく」
男は、耳に手をあてるジェスチャーをした。
「ラジオのチューニングみたいなもの。
最初はザザッて雑音だらけでも、少しずつダイヤルを回していくと、だんだんクリアに聞こえてくる」
「『魂の奥底にある善』の声が、ですか」
「そう。
その声はね、いつも『自分も、あの人も、大切にしよう』って言ってる」
空は、これまでの日々を思い返した。
誰かの頼みを断れずに引き受け続けて、ある日突然、体が動かなくなってしまった日のこと。
あれは、『善』から、少し離れちゃってたのかもしれない。
「じゃあ……これから、僕は、何を選んでいけばいいんでしょう」
男は、少しだけ肩をすくめた。
「例えば、こんなふうに」
男は、指を折りながら、ゆっくりと言った。
「ひとつ。
自分の体が限界をこえて悲鳴をあげているときには、『休むこと』をいちばんの善として選ぶ」
「ふたつ。
人の頼みを引き受けるときには、『これをしたあとも、自分を嫌いにならずにいられるか』を、ひとつの目安にする」
「みっつ。
誰かを助けるとき、自分の役割を『スーパーヒーロー』ではなく、『バトンを渡す人』だと思ってみる。
全部を自分ひとりで背負うんじゃなくて、専門の人や仲間に、『ここから先はお願いね』ってバトンを渡す」
空の胸の中で、何かがカチッと音を立てて、はまったような感覚がした。
「それなら、少し、できそうかもしれません」
「ね!」
男は、優しく笑った。
「それが、『自分を尊重しつつ、隣人も尊重する』ってことの、ごくふつうの、でも、とても大切なかたち」

コンビニの自動ドアが、ウィーンと音を立てた。
深夜三時をまわり、外の空気はすこし冷たい。
「そろそろ、行くよ」
男は、漫画雑誌を手に取ったまま、ふと振り返った。
「ねえ、空くん」
「はい」
「今日の帰り道、空を見上げてみて」
「僕の名前だけに?」
「そうそう」
男はおどけてから、少し真面目な声になった。
「もし、星が見えなくてもいい。
雲がかかってても、街の明かりで見えなくてもいい。
ただ、こうつぶやいてみてほしい」
空は、無意識に、ごくりとつばを飲み込んだ。
「なんて、ですか」
男は、ゆっくりとした口調で言った。
「『自分も、隣のあの人も、同じ空の下で、大切にされていい』」
空は、心の中で、その言葉を何度も繰り返した。
自分も、隣のあの人も。
同じ空の下で。
だいじにされていい。
それが、『魂の奥底にある善』の、いちばんシンプルなメッセージだから。
男はそう言って、レジ袋を受け取ると、軽く会釈した。
「ありがとうございました。
またのご利用を……」
空が、ついマニュアルどおりに言うと、男はおかしそうに笑った。
「うん、またね、空くん」
自動ドアが開き、男は夜の街へと消えていった。
背中の星空が、本物の闇夜に溶けていく。
店内にひとり残された空は、しばらく、そのドアを見つめていた。
「魂の奥底にある善、か……」
ぽつりとつぶやくと、ポケットの中のスマホが震えた。
画面には、友だちからのメッセージ。
『さっきのお願い、どうかな?
空ならきっと大丈夫だと思って』
空は、深く息を吸った。
さっき教えられたばかりの「10秒」を、試してみることにした。
目を閉じる。
胸に手をあてる。
『いまの自分の心と体の状態で、これは本当に引き受けていいかな』
しばらく沈黙が続いたあと、心の奥から、静かな声が聞こえた気がした。
『……今のままだと、ちょっと無理をしちゃうかも。
でも、手伝いたい気持ちは、本当にあるよね。』
空は、ゆっくりと目を開けた。
「そうか。
どっちも、本当なんだ」
彼は、スマホに指を走らせた。
「ごめん。
今週は体力的にきつくて、全部は手伝えないかも。
でも、準備のこの部分だけなら、できそう。それでもよかったら、やらせてほしい」
送信ボタンを押した瞬間、心の中で、何かがフッと軽くなった。
数分後、返信が届く。
『全然オッケー!
むしろ言ってくれてありがとう。
無理させてたらごめん』
空は、知らず知らずのうちに、頬がゆるむのを感じた。
「……あ、大丈夫なんだ」
自分を尊重しながら、相手も尊重することは、たしかに、ここにあった。
勤務が終わり、空は店を出た。
夜明け前の空には、うっすらと雲がかかっている。
星は、見えない。
それでも、空は立ち止まって、顔を上げた。

「自分も、隣のあの人も、同じ空の下で、大切にされていい」
声には出さず、心の中だけでつぶやく。
胸の奥で、何か温かいものが、そっと灯る。
その光は、まだ小さい。
けれど、たしかに、そこにあった。
魂の奥底にある善。
自分を粗末にせず、隣人も、同じ重さで大切にする、不器用で、でもまっすぐな決意。
空は、ひとつ、深呼吸をした。
今日も、コンビニ銀河の一日は続いていく。
おでんのだしの匂いと、コピー機のかすかな音と、誰かの小さな勇気を、そっと乗せながら。
【あとがき】
実は、かつての私にも、空くんのように「優しさ」と言い訳しながら、誰の頼みも断りずらく、自分を粗末に扱っていた覚えがあります。
嫌われるのが怖くて、自分をすり減らす苦い経験でした。
自分も相手も同じ重さで尊重する……
それは今でも本当に難しく、私も日々、不器用に天秤を揺らしながら模索しています。
もし今、頑張りすぎて自分をカサカサに乾かしている方がいたら、どうか忘れないでください。
あなたの「魂の奥底にある善」は、あなたが破滅することなんて望んでいません。
あなたも、隣のあの人も、同じ空の下で、同じ重さで、大切にされていい。
by シマ吹くろう🌿