深い森の奥、木漏れ日がやわらかく降り注ぐ「陽だまり」のような場所がありました。
そこには「森の番人」と呼ばれる年老いた主(あるじ)が、あちこちから運ばれてきた、元気のない苗木たちと一緒に静かに暮らしていました。
ある日のこと。
一人の旅人が、枯れかけた小さな苗木を抱えてやってきました。
それは、旅人が長い道のりをずっと、必死に守り続けてきた「自分そのもの」のようでした。
旅人は力なく笑って、番人に言いました。
「……もう、どうすればいいのか分からないんです。
大切に育てようと思えば思うほど、この子は元気を失っていく。
私のやり方が、間違っていたのでしょうか……」
旅人の目には、諦めきれない思いと、隠しきれない疲れが滲んでいました。
番人は、その折れそうな苗木をじっと見つめて、穏やかに微笑みました。
「よくぞ、ここまで放さずに連れてきたのう。
お前さんは、この子を守ろうと一生懸命になり過ぎてしまったんじゃな。
でもな、旅人さん。
木というものは、頑張って大きくなろうなんて思わなくてええんじゃ。
ただ、自らの力で大地を踏みしめ、なりたい自分になろうとする……その『命の衝動』を信じてやればいい。
大丈夫、まだ間に合う。
この陽だまりの土は、お前さんのこれまでの涙さえ、栄養に変えてくれるからのう」

番人はまず、旅人にこう言いました。
「その苗木を、この陽だまりの泥土の上にそっと置いてごらん」
旅人は慌てました。
「汚れてしまいます! もっと綺麗な場所に移さないと」
でも、番人は優しく首を振りました。
「木にとって、泥は汚れではないんじゃよ。
自分を支えるための、大切な『ごはん』なんじゃ。」
旅人はキョトンと真っ白な表情。
「お前さんは、自分の情けない記憶や、隠したい失敗を『汚れ』だと思って消そうとするかもしれん。
でものう、その泥臭い経験があるからこそ、根っこはどこまでも深く張れるんじゃよ。
格好悪さを隠さなくてええ。
その土をぎゅっと抱きしめてごらん。
それが、自分を支える一番の栄養になるからのう」
旅人は戸惑いながらも、汚れだと思っていた足元の泥を、おずおずと見つめ直しました。
すると、汚いとばかり思っていた土が、どこか温かく、力強い匂いをまとっていることに気づいたのです。
「……そうか、無駄なことなんて、ひとつもなかったんだ」
苗木の根が、まるで泥を喜ぶように深く潜っていくのを見て、旅人は胸の奥に、小さく温かいものを感じました。

苗木が少しずつ幹を伸ばし始めた頃、旅人は周囲の大きな木々との距離に戸惑っていました。
「他に合わせすぎて、自分が消えてしまいそうになります。
でも、一人で立つのは寂しくて……」
番人は、杖でトントンと地面を叩き、近くに立つ一本のブナの木を示しました。
「木っていうのはのう、お互いに『ここからは私の場所』っていう境界線を持っているもんじゃ。
相手を押しのけるんじゃない。
自分を無理に曲げるのでもない。
ただ、自分の重さを自分で支えて、スッと真っ直ぐ立つのじゃ。
内なる幹の『節(ふし)』を見てごらん。
それは、かつて傷ついた場所が、自分を守るためにギュッと締まって強くなった証拠でな、立派な勲章じゃよ。
そうやって自分をしっかり持っているからこそ、風が吹いた時に、お互いの葉っぱが触れ合って、心地よい歌を歌えるようになるんじゃ」

旅人は、自分の腕にある古い傷跡をそっと撫でました。
ちょうどの間で、自分を大切に凛と立つことが、誰かと響き合うための優しい方法だと知ったとき、喜びから旅人の顔に春の風のような柔らかな微笑みが浮かびました。
ある朝、森に深い霧が立ち込めました。旅人は自分の木が霧に飲み込まれ、孤立してしまいそうで不安になりました。
番人はかたわらに広がる苔をそっと撫で、目を閉じて深く静かな呼吸をしてみせました。
「見てごらん。
この森の地下では、すべての木が根を伸ばしてつながっておる。
一人が弱れば誰かが栄養を送り、森全体が一つの命として生きておるんじゃよ。お前さんの吐き出す息は鳥の力になり、雲が落とした雨は、お前さんの喉を潤す。
本当はのう、お前さんもこの大きな巡り巡る中で、愛され、生かされておるんじゃ。
独りぼっちで戦わなくてええ。
ただ、世界と溶け合うように息をしてごらん」

旅人が深く息を吸い込むと、森の葉が「サァーッ」と一斉に鳴り響きました。
「……私は、一人じゃなかったんだ」
孤独という重荷を下ろした旅人の心に、かつてない安心感が広がりました。
苗木の葉はいっそう鮮やかに輝き、旅人の瞳には、希望に満ちた強い光が宿っていました。
やがて、旅人の木には小さな蕾(つぼみ)がつきました。
「この花を、ずっと大切に咲かせておきたいです」
と嬉しそうに語る旅人に、番人は穏やかに言いました。
「花はいずれ散り、種になる。
それはお前さんの物語が、お前さんだけで終わらないっていうことじゃ。
お前さんが今日、自分を愛し、隣の誰かと歌を歌ったことは、百年後にここで雨宿りをする、まだ見ぬ誰かの笑顔につながっておる。
自分のために咲き、誰かのために種を落とす。
そうやって命を巡らせていくことこそが、生きるということの本当の豊かさなんじゃよ」
旅人は、自分の成長が未来の誰かの力になることを想像し、胸がいっぱいになりました。
その喜びは、どんな宝物を見つけたときよりも深く、静かなものでした。
旅人がふと気づくと、かつて枯れかけていた苗木は、そよ風に身をゆだねて心地よく揺れる、美しい一本の成木へと育っていました。

旅人は、その木を見上げました。
あの日、枯れかけていた苗木。
汚れだと思っていた泥。
消したいと思っていた傷。
そして、何度も立ち止まりながら歩いてきた道のり。
そのどれ一つ欠けていたなら、この木は今日ここに立ってはいなかったのでしょう。
胸の奥から込み上げてきたのは、喜びよりも深く、静かな感謝でした。
旅人は、言葉にすることなく、その想いを胸いっぱいに抱きしめました。
番人はもう何も言わず、ただ静かにお茶をすすりながら、満足げな旅人の姿を眺めています。
旅人はその木をそっと撫でてから、軽やかな足取りでまた歩き出しました。
「さあ、ゆっくり行こう。次はどんな花を咲かせようか」

皆さんの心内にある苗木も、いま、静かに呼吸をしているでしょう。
泥を愛し、節を誇り、隣の誰かと優しく葉っぱを触れ合わせながら、あなただけの喜びの物語を綴っていってください。
木漏れ日が柔らかく降り注ぎます。
【あとがき】
私たちは、つい「もっと頑張らなければ」「失敗は消さなければ」と思ってしまうことがあります。
でも、木は泥を嫌いません。
傷ついた場所には節ができ、その節が木を強くしていきます。
そして、一人で大きくなろうとする木もありません。
この物語の苗木は、特別な誰かではなく、私たち一人ひとりの心です。
過去も、傷も、人とのつながりも、そのすべてが明日への種になります。
この物語が、あなたの心にある小さな苗木へ、そっと木漏れ日を届けられたなら、とても嬉しく思います。
by シマ吹くろう🍀