昭和男の人間関係奮闘記
〜心はウェットに、行動はドライに〜
1960年代生まれの男、山田(58歳)は、今、オフィスで途方に暮れていました。
かつて彼が生きてきた世界は、もっと泥臭くて、温かいものでした。
徹夜のあとのサウナ、居酒屋での熱い語り、肩を組んで流した涙。
しかし、現在のオフィスは、まるで傷一つつけない無菌室のようです。
「山田さん、先ほどの『気合を入れていこう』というメールですが、若手から『精神的に圧迫感がある』と指摘が出ました。
今後は具体的な数字での指示をお願いします」

コンプライアンス室からのメールを眺め、山田は深いため息をつきます。
「触るな、近づくな、深く関わるな、か……。
なんだってこんなに、寂しい世の中になっちまったんだ。
俺たちのしてきたことは、全部ダメだったのかなぁ」
そんな山田の前に現れたのが、新人の三島(24歳)でした。
三島は優秀ですが、とにかくドライ。
定時1分前にはパソコンを閉じ、飲み会は「事前のお約束がないので」と秒速で断ります。
山田が「最近どうだ?」と肩を叩こうとすると、三島はスッと滑らかなステップでそれをかわします。
その身のこなしは、まるでプロのボクサーのようでした。
ある日の夜。
三島が大きなコンペの担当に抜擢されましたが、準備は難航しているようでした。
誰もいないオフィスで、三島は一人、パソコンの画面を見つめたままフリーズしています。
山田の「昭和の血」がうずきます。

「よし、ここは一発、美味いもんでも食わせて、男の仕事ってやつを語ってやるか!」
……と、立ち上がった瞬間、山田の脳裏にコンプライアンス室の顔がよぎりました。
「待てよ。
夜にサシの飲み? これ、もし断られて通報されたら、俺のサラリーマン人生、定年直前で一発レッドカードじゃないか?
うう、怖い。現代社会、怖すぎる!」
山田は情熱の炎をシュンと消され、結局、何も言えずにオフィスを後にしました。
心はこんなに熱いのに、行動は冷たくしなきゃいけない。
そのはざ間で、山田の心はパンク寸前でした。
翌日。
モヤモヤが収まらない山田は、オフィスのベランダに出て、飾られている観葉植物にバサバサと豪快に水をやっていました。
心の中で「今の若い奴らは、どいつもこいつも冷たいサボテンみたいだ!」と毒づきながら。
そこへ、会社の総務でグリーン管理を任されている、8つ年上の大先輩、ベテラン用務員の加藤さんが通りかかりました。
「ちょっと、山ちゃん。
そんなに上からバケツでドボドボ水をぶっかけたら、根腐れして枯れちゃうよ。
植物にもそれぞれ、水のやり方ってものがあるんだから」

「あ、すいません。
……いやね、先輩。 なんだか最近の若い奴らを見てると、このサボテンと同じに見えてきちゃいましてね。
ちょっと良かれと思って近づいただけで、トゲを立ててハラスメントだなんだって威嚇してくる。
触れやしないんですよ」
加藤さんは、フッと優しく笑いました。
「山ちゃん。サボテンがなぜトゲを持っているか、知ってる? あれはね、誰かを攻撃するためじゃないんだよ。
砂漠という過酷な環境で、自分の大切な水分を守るための『防衛策』なんだから」
「防衛策……?」
「そう。
今の若い人たちにとって、現代社会は『一歩間違えれば人生が終わる砂漠』みたいなもの。
SNSで一回失敗すれば終わり、大人の一言で心が折れれば終わり。
だから、トゲという名のルールで固めた防弾チョッキを着込んで、必死に自分を守ってるの。
そこに、山ちゃんが昔の感覚のまま『おい、俺の熱いエネルギーを受け取れ!』って迫ったら、そりゃあトゲで刺すしかないじゃない」
山田はハッとしました。
彼らは自分を嫌っているのではない。
ただ、砂漠を生き抜くために、必死で「防弾チョッキ」を着ているだけなんだ、と。
「サボテンに水をやるときはね、彼らのトゲを尊重して、そっと根元に、必要な分だけ差し出すの。
心の中では『元気に育ってね』と熱く願いながらも、やり方は『スマートに、ドライに』。
それが、今の時代の大人の優しさってものよ」
心はウェットに、行動はドライに。
オフィスに新鮮な風を感じました。
その言葉が山田の胸にすとんと落ちたのです。

そして迎えた、コンペ前日の夜。
オフィスには、やっぱり三島が一人で残っていました。
連日の疲れで顔色は真っ青、パソコンを叩く指も少し震えています。
昔の山田なら、こう言っていたでしょう。
「おい、三島! 根性が足りんぞ!
よし、 今から美味いラーメン食いに行くぞ!」
そして朝まで付き合わせていたことでしょう。
でも、今の山田は違います。
「よし、現代の『ドライな実務』とやらを、見せてやる」
山田は、三島に近づきました。
距離はきっちり1.5メートル。
絶対に体には触れません。
部屋のドアも、廊下から丸見えになるよう、あえて全開にしました。
「三島くん。 ちょっといいかな」
三島はビクッと肩を震わせ、警戒した目で山田を見ました。
「また説教か」と、全身から警戒のトゲが逆立ったのがわかります。
「今、夜の10時だ。
効率が下がるから、あと15分で切り上げなさい。
これは業務命令だよ」
あえて事務的に、冷たく言い放ちます。
三島はポカンとした表情をしています。
山田は続けます。
「ただし、君が作った資料の3ページ目。
あの分析は本当に素晴らしい。
あれなら明日、みんな納得するよ。
自信を持って。
……以上だ。
連絡は明日の朝、チャットで」
言い終えると、山田は長居せず、サッと背を向けて歩き出しました。
その時、山田の手には、一つのコンビニの袋が握られていました。

「よし、ここからが本番だ。
ウェットな心を、ドライに届けるぞ!」
山田は振り返ることなく、オフィスの出入り口にあるテーブルに、その袋をポンと置きました。
中に入っているのは、2つのおにぎりと、温かいお茶。
そして、一枚の付箋。
そこには、昭和の男が必死でひねり出した、ちょっと笑えるメッセージが書かれていました。
『三島くんへ。
共有スペースに、エネルギー補給用の物資を配置した。
消費期限は明日の朝まで。
廃棄コスト削減のため、速やかに消費することを推奨する。
なお、これは有志による無償提供であり、いかなる対価(お礼の言葉など)も要求しない。
お疲れ様。 山田』
山田はそのまま、振り返らずにエレベーターに乗り込みました。
「ふう、やってやったぞ。
サシ飯の誘いなし、タッチもなし!
完璧なリスクマネジメントだ!
……でも、ちょっと冷たすぎたかなぁ。
おにぎり、食べてくれるといいんだけど……」
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、なんだか少し、今風の格好いい大人の顔をしているように見えました。

翌朝。コンペの当日。
山田がデスクに座ると、パソコンの画面に通知が届きました。
三島からのビジネスチャットでした。
いつもの「承知いたしました」の一言ではありません。
そこには、少し長めの文章が綴られていました。
『山田さん、おはようございます。
昨夜は物資の提供、ありがとうございました。
推奨通り、速やかに消費させていただきました。
実は昨日、自分の実力不足に落ち込んで、もう会社を辞めようかとまで思い詰めていました。
でも、山田さんが距離を保ちつつ、私の体調を気遣って、資料を具体的に褒めてくださったおかげで、「自分はここにいていいんだ」と、暗闇の中で明かりを灯されたような気持ちになりました。
おにぎり、とても温かかったです。
今日のコンペ、山田さんが認めてくださった3ページ目を武器に、戦ってきます。
行ってまいります。 三島』
パソコンの画面を見つめながら、山田の目頭が熱くなりました。
オフィスを見渡すと、三島はすでにクライアントの元へと出発した後でした。
彼のデスクの上には、綺麗に折りたたまれたコンビニの袋と、あの付箋が残されていました。
「……なんだよ、三島。
あいつ、チャットの文章は全然ドライじゃないじゃないか」

山田は小さく笑い、涙を指で拭いました。
分かったのです。
ルールで縛られたドライな社会でも、人間の心は死んでいない。
若者たちは、冷たい防弾チョッキを着込みながらも、その奥では、心の温かいぬくもりを、誰よりも待っているのだということを。
昔のように、素肌で抱き合うことはできないけれど。
お互いにチョッキを着たままだからこそ、相手を傷つけず、自分も傷つかず、そっと背中を支え合うことができる。
心は、どこまでもウェットに、熱く。
行動は、どこまでもドライに、スマートに。
「よし。
俺もまだまだ、この砂漠でサボテンたちと上手くやっていけそうだな」

山田はネクタイをきゅっと締め直し、新しい風が吹くオフィスに向かって、晴れやかな笑顔で歩き出しました。