真夜中の小さなステージ
私は美咲。
結婚して5年。
夫の慎吾は、平日はまじめに働く、市役所の納税課の職員です。
毎日、市民からの厳しい苦情を受け止め、数字と格闘し、いつも疲れ果てて帰ってきます。
そんな彼の部屋のクローゼットの奥には、一台のエレキギターが、分厚いケースにしまわれたまま、ずっと眠っていました。
かつて、慎吾は本気でプロのミュージシャンを目指していました。
けれど、20代の前半にバンドは解散。
彼は「俺の才能はここまで」と、ギターをクローゼットに封印し、一切音楽に触れない生活を選んだのです。

まるで、過去の自分を熱いお湯で洗い流してしまったかのように。
その日、慎吾が仕事から帰ってくると、スマホが一通の通知を告げました。
画面を見ていた慎吾の顔から、すうっと血の気が引いていくのが分かりました。
「……どうしたの? 慎吾」
「あ、いや……なんでもない。
ただの、昔のバンド仲間から」
慎吾は笑おうとしましたが、その笑顔は完全に引きつっていました。
ご飯を食べる手も、どこかおぼつかない。
夜、彼が風呂に入っている間に、私はリビングのテーブルに置かれた彼のスマホに、一枚のメッセージが表示されているのを見つけてしまいました。
『来月、俺たちの聖地だったライブハウスが閉館するんだ。最後の夜、1曲だけでいいから、お前とまたステージに立ちたい。頼む、慎吾』

正直、私は思った。
『おいおい、もう40だよ?
17年もブランクがあるのに、今さらステージなんて無理でしょ。
指だって動かないだろうし、下手に昔の夢を思い出して、今の安定した生活が揺らいだらどうするの?
仕事のストレスを抱えながら、わざわざ過去の栄光に振り回されるような真似はしなくてもいいよね。』
けれど、私はそれを言葉にせず、喉の奥にグッと押し込みました。
だって、風呂上がりに、キッチンでお湯を沸かしながら左手の指先を、じっと見つめている慎吾がいたのです。
まるで、もう古く動かなくなった機械の部品を思うように、確かめるように、切ない目をして。。。
それからの慎吾は、なんだか様子がおかしくなりました。
慎吾は、今まで通り市役所に通っていますが、夜、私が寝たあとです。
リビングで何やら「コソ、コソ」「ペタ、ペタ」と微かな音。。。
ある夜、喉が渇いて目を覚ました私は、リビングのドアをそっと開けました。
そこにあったのは、ちょっと異様な光景でした。
薄暗い間接照明の中、慎吾がエレキギターを抱え、必死に指を動かしていたのです。
弦の生音だけが「シャカ、シャカ」と虚しく響いています。
彼の額には汗が浮かび、左手の指先は、久しぶりの硬い弦に負けて、真っ赤に変色していました。

「……慎吾?」
「うわっ!? み、美咲……!
起こしちゃったか?」
慎吾は、まるで深夜に冷蔵庫のつまみ食いを見つかった子供……いや、密猟者のような顔をして、慌ててギターを隠しました。
「ううん。
……ギター、練習してたんだ」
「あ、あぁ……。
いや、あの、来月のライブさ。
断ろうと思ってたんだけど、どうしても、1曲だけ……。
でも、全然ダメだ。
指が全然動かない。
頭では分かってるのに、身体がついてこないんだ」
慎吾はじちょう気味に笑い、自分の左手を凝視しました。
「やっぱり、ブランクって怖いな。
昔は何も考えずに弾けたフレーズが、今は迷路みたいに感じる。
……やっぱり、やめとくよ。
恥をかくだけだ。
40歳のおっさんが、今さら何やってんだろな」

彼はギターをケースに戻そうとしました。
その手は、少し震えていました。
それは、彼が「今の安定した自分」を守るために、自分の「本当に好きだった気持ち」を、もう一度殺そうとしている瞬間でした。
その姿を見たとき、私の胸に、言葉にならない切迫感が突き刺さりました。
「ここで私が『そうだね、無理しなくていいよ』って言ったら、この人は一生、クローゼットを見るたびに、小さな後悔という毒を飲み続けなきゃいけないんじゃないか?」
私は、ケースを閉めようとする彼の両手を、上から押さえました。
「慎吾、待って。……お腹空かない?
味噌汁、温め直すよ」
「え? いや、でも、もう2時だよ?」
「いいから。座って」
私はキッチンへ行き、出汁の香りたつ味噌汁を器に注ぎ、彼の前に置きました。
慎吾は戸惑いながらも、温かい味噌汁を一口、すすりました。

私は彼の正面に座り、静かに、でもはっきりと話し始めました。
「ねぇ、慎吾。
私さ、昔、テレビであるピアノ調律師の話を見たの。
何十年も誰も弾かずに、湿った物置に放置されてた、ボロボロのピアノを修理する仕事」
「……ピアノ?」
「うん。弦は錆びて、鍵盤はカチカチに固まって、叩いてもペコペコって変な音しか出ないの。
周りの人はみんな『もう寿命だ、処分して新しいのを買え』って言ったんだって。
でもね、その調律師さんは、こう言ったの。
『このピアノの骨組みは、まだ生きようとしてる。時間をかけて調律すれば、必ずこのピアノにしか出せない、深い音が戻ってくる』って」
慎吾は、味噌汁のお椀を持ったまま、私をじっと見つめました。
「慎吾。今の慎吾の指は、その物置のピアノかもしれない。
17年も弾いてなかったんだから、錆びついてて当然だよ。
動かなくて当たり前じゃん。
……でもね、慎吾の心の中にある『音楽の骨組み』は、まだ全然死んでないよ。
だって、こんな夜中に、指を真っ赤にしながら、泣きそうな顔でギターを抱えてるんだもん」
私は、慎吾の、弦の跡が深く刻まれた指先を指差しました。
「私さ、慎吾の納税課の仕事、すごく尊敬してる。
毎日真面目に働いてくれて、本当に感謝してる。
でもね……私が恋に落ちた慎吾は、ステージの上で、誰よりも楽しそうにギターをかき鳴らしてた、あの慎吾なんだよ。
私は、慎吾が『昔ギターをやってた、ただの真面目な公務員』として、自分の殻に閉じこもっていくのを見るのは嫌よ」

慎吾の目が、微かに潤み、大きく見開かれました。
「恥をかいたっていいじゃん。
指がもつれたっていいじゃん。
プロじゃないんだから。
私は、慎吾がもう一度、自分のためにステージに立つ姿が見たい。
……ねっ、慎吾。
私に、あなたの調律をさせて」
慎吾はしばらく黙って、冷めかけた味噌汁を見つめていました。
やがて、彼は大きく息を吐き、お椀を置くと、不器用な笑顔を作りました。
「……美咲。お前の調律、
めちゃくちゃ厳しいなー」
「当たり前でしょ。元バンドマンの妻なんだから」
「……よし。やるよ。
1曲だけ、最高の音を出してやる」
その瞬間、リビングの重苦しい空気は一変しました。
彼の目に、17年前に失われたはずの、あの「ヒリヒリとした熱量」が、確かに灯ったのです。
そこからの我が家は、さながら「真夜中の合宿場」でした。
私は、彼の技術的なミスを言わず、「今のチョーキング、めちゃくちゃエロくて格好良かった!」と励ます言葉を選び、
「近所迷惑じゃない?」ではなく、「大丈夫、布団被って弾けばセーフ!」と背中を押すのです。

ある土曜日の昼下がり。
慎吾は「ステージでの魅せ方を取り戻す」と言って、リビングの鏡の前で、ギターを低く構える練習を始めました。
しかし、40代の身体は正直です。
「……痛っ! タタタ……!」
「どうしたの!?」
「いや、ちょっと、昔の癖でギターをめちゃくちゃ低い位置で構えて、カッコつけたら、腰がいった……。
グキッて……」
「ちょっと慎吾!
ロックスターが本番前にギックリ腰とか、笑えないから!
ほら、湿布貼るからこっち来て!」
リビングで、パンツ一丁のロックスターの腰に、私が必死で冷感湿布を貼り付ける様子。
「ロックスターは、腰痛なんか気にしないんだ……」と強がる慎吾の姿。
あまりにも情けなくて、でも愛おしくて、私たちは二人で大笑いしました。
美咲は感じていました。
「否定を捨て、彼の無謀な挑戦に並走すること。
それは、私の日常をも、驚くほど色鮮やかに変えている」と。
そして迎えた、ライブ当日。
薄暗いライブハウスは、かつての常連や、解散したバンドのファンたちで超満員でした。
楽屋の裏で、慎吾は緊張のあまり、吐きそうな顔をしていました。
「美咲、やっぱり怖い。
手が震えて、ピックが持てないかもしれない」
私は、彼の両手をギュッと握りしめました。
「大丈夫。
慎吾の手は、この1ヶ月でちゃんと調律されたから。
自信持って、行ってらっしゃい!」
ベルが鳴り、ステージの幕が上がります。
まばゆい照明が、慎吾の姿を照らし出しました。
ドラムのカウントから、イントロの重厚なギターリフが鳴り響いた瞬間。。。
私は鳥肌が立ちました。
それは、最初の夜にリビングで聞いた、あのカサカサした生音とは全く違う、魂の底から絞り出されるような、太くて、熱い音でした。
慎吾の指は、確かに現役の切れではありません。
昔のような完璧な演奏ではなかったかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
彼は、生き生きとした目で、汗を飛び散らせながら、全身で「俺はここにいる!」と叫ぶようにギターを弾いていました。
その姿は、間違いなく、世界で一番格好いいギタリストでした。

演奏が終わり、地を揺るがすような大歓声が沸き起こったとき、私は客席の後ろで、涙が止まらなくなっていました。
帰りの車の中。
助手席の慎吾は、すっかり燃え尽きたような、でも、どこか信じられないくらいスッキリした顔をしていました。
「……美咲。ありがとう」
慎吾が、静かに言いました。
「俺さ、あのときステージに立って、やっと気づいたんだ。
俺が本当に怖かったのは、上手く弾けないことじゃなくて、音楽を諦めた自分を、ずっと認められないことだったんだなって。
……お前が、あの夜『いいじゃん』って背中を押してくれなかったら、俺は一生、あのクローゼットの前で立ち止まったままだった」
慎吾は、私の手をそっと握りました。
その指先は、硬いタコができて、少しガサガサしていました。
「明日からまた、市役所で数字の山と格闘するよ。
でもね、今の俺なら、どんな苦情がきても笑顔で乗り切れる気がする。
俺には、あのステージがあるから」
「うん。お疲れ様、私のロックスターさん」
私は笑って、彼の肩に頭を預けました。
愛する人の夢を応援するって、きっと、その人を成功させることじゃない。
「あなたには、それが必要だよ」って、ただ笑顔で背中を押してあげること。
それだけでいいんだ。

「ねぇ、慎吾。
次の週末、またあの曲、リビングで弾いてよ。
今度は私も、タンバリンで参加するから」
「え、タンバリン?
……いいじゃん、それ。
俺が最高の伴奏つけてやるよ」
車窓を流れる街灯の光が、私たちの未来を祝福するように、優しくまたたいていました。
彼の調律された心は、これからも私たちの日常の中で、美しく響き続けていきます。
(by shimafukuro)