3〜4歳ころの思い出せる記憶が他にもいくつかある。その一つ、誰だったかまでは覚えてないが、少し年上の近所のお兄ちゃんとの思い出。
ある家の庭で遊んでいると、その子が「来てみろ」と声を掛けてきた。着いて行くと縁側の下らしきところで砂に小さな穴が開いているのを見せてくれた。いいかー、見ていろと言いながら近くを歩いていた蟻を一匹捕まえてその小さな穴に落とした。すると、その蟻は砂の穴から這い上がろうともがいていた。そのうち穴の中心に落ちていき、中から何かが蟻を捕まえた。そして砂の中に引きずり込まれるのを見た。
これは蟻地獄というのだと教えてくれた。そのお兄ちゃんは砂の穴に指を刺し入れほじくり始めた。手に取るとそこに小さな虫がいた。これが蟻地獄だと言って灰色の小さく蜘蛛のような虫を見せてくれた。 砂の穴に落ちた蟻を食べて生きている虫だった。
私は、この蟻を捕まえる仕掛けやもがく蟻のかわいそうな光景を見てとても強烈な印象を覚えている。
もう一つもショックな印象として記憶に残っている。
私のおじいちゃんおばあちゃんの家に遊びに行った時である。
やはり縁側につながる庭での出来事。そこでは鶏を数匹飼っていた。私は、おじいちゃんの庭で鶏を追いかけてよく遊んでいた。ある日、おじいちゃんがその鶏の一羽を捕まえた。そして一羽の鶏は首を持たれてぶら下がった状態になった。なんかかわいそうだなぁーと思った瞬間、おじいちゃんは持っていた包丁のようなもので鶏の首をスパっと切り落とした。衝撃的だった。首から下の胴体が地面に落ちると、その鶏は首がない状態で庭のあちこちを駆け回り、物や壁に当たりぶつかりように走り回っていた。 しばらくすると胴体だけの鶏の動きが止まり倒れた。
鶏の首を切ったおじいちゃん。その首がない状態の胴体だけで走り回る鶏。言葉にならぬ恐ろしいショッキングな光景だった。
その後、おじいちゃんが鶏の体にはえている沢山の羽をむしり取りながら、この鶏の命が私たちの大切な食事となることを教えてくれた。食用として飼育される生き物との関係性の大切さをその時に教わった。
《たま手箱の心感覚》
生きるために別の生き物を食べる。幼いながらも食物連鎖の一部分を知った瞬間だったと感じている。
最近のようにすでに加工された食物だけをいただいていると、その生き物の生前の姿を知らずにいることも多いのでは。ありがたみを知った思い出だと思う。